太平記第5巻(著:森村誠一)を読んだ!
第1巻では内部崩壊を始める鎌倉幕府と、倒幕に向けて動きだす後醍醐天皇と楠木正成が描かれていました。(1331年10月)
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『太平記 第1巻』を読んだ! - lands_end’s blog
第2巻は、隠岐の島へ流された後醍醐天皇と、弱体化が止らない幕府の様子が描かれていました。
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第3巻は隠岐の島を脱出する後醍醐天皇と、最後に幕府を裏切った足利尊氏、六波羅探題の滅亡(1333年5月7日)が描かれていまし。
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第4巻は新田による鎌倉滅亡と、建武の親政の開始。そして脆くも崩れ去る親政について描かれていました。
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今回の記事は第5巻のまとめです。
崩れ行く新しい世(建武の親政)、朝廷という権威に最後まで殉じた楠木正成の最後が描かれた巻です。
『太平記 第5巻』のあらすじ
鎌倉を制圧した北条の残党(中先代の乱:1335年)から再び鎌倉を取り戻した足利尊氏は、朝廷の再三の都への帰還要請に従わずそのまま鎌倉に居座ります。
さらに、武家の棟梁として土地の差配を行い、足利寄りの武家に恩賞を与える等、後醍醐天皇の親政に対し真っ向から反発するようになります。
そして、朝廷に巣食う君側の奸・新田義貞を討つと称して軍勢を召集します。
突然、尊氏から逆賊呼ばわりされて矢面に立たされた義貞も行動を起こします。
幽閉されていた護良親王を弑し奉った罪等、足利の八悪を朝廷に奏呈することで、朝廷から足利討伐の綸旨を賜ることに成功します。
義は新田にあると見た多くの武士が終結し、義貞は大軍を率いて足利討伐に向います。
勢いに乗る討伐軍は尊氏の弟・直義が率いる迎撃軍を破り、箱根に迫ります。
しかし、ここでも義貞は失敗を犯すのです。
鎌倉幕府を滅ぼす戦いの際も攻めるべき時になぜか進軍を止めてしまい、危うく勝機を逸するところまで追い込まれた訳ですがが、義貞はあの失敗から何も学んではおりませんでした。
今回も、勢いに乗じて鎌倉を目指せば良かったのですが、箱根で進軍を止めてしまい、その結果、今度は本当に勝機を逃してしまうのです。
鎌倉に閉じこもり戦況を伺っていた尊氏が動き出すと、その動きを読めなかった討伐軍は敢え無く打ち破られ、義貞は敗軍をまとめて命からがら都へ逃れます。
その後を、尊氏は大軍を率いて上洛します。
後醍醐天皇は比叡山へ動座し、尊氏の手から逃れて必死に抵抗を続けます。
そこへ、奥州から北畠顕家が大軍を率いて駆けつけます。
強力な奥州軍になすすべも無く足利勢力は打ち破られ、尊氏は芦屋から九州へ落ち延びるのでした。
後醍醐天皇は再び京へ戻ります。
この時、追討軍を出して尊氏を追いつめればその後の世は変わったのでしょうが、新田や朝廷の臣の多くは、尊氏は勝手に九州で野垂れ死ぬと考え、軍を派遣せずに尊氏を見逃してしまうのでした。
楠木正成は、いまこそ帝から尊氏に手を差し伸べ、政治面を帝が、そして軍事面は尊氏に任せることで親政が上手く運営されると上申します。
しかし、頭の固い側近たちに却下されてしまい、帝と尊氏の和解の最後のチャンスは潰えてしまうのでした。
九州へ逃れた尊氏は、菊池などの南朝方の軍勢を打ち破ると息を吹き返します。
やがて、九州を制圧した尊氏は再び上洛の軍を起こします。
予想外の事態に慌てた朝廷は正成を呼び出します。
正成は、足利勢に当たるためには新田の元では戦えぬと言い、全軍の指揮権を預ることを願い出ます。その上で、正面から戦うのではなく、かつて幕府との戦いで見せたような篭城&ゲリラ戦を展開すること、さらに帝には再度比叡山に動座して頂く事を上申しますが、戦いを知らぬ公家たちによって、悉く正成の願いは却下されてしまうのでした。
これまで朝廷のために全てを投げ打って戦ってきた楠木一族に対し、朝廷が命じたのは万に一つの勝ち目もない戦へ出向くことでした。
この余りに理不尽な命令に対し、正成は呆れると共に未来を諦めてしまいます。
それでも、帝を裏切らず、己の信念を守るために、尊氏と戦うことを決断するのでした。
万に一つの勝ち目もないと悟った正成は、筋を通して朝廷に殉じるのでし
1336年5月25日、湊川の戦いにて楠木正成討死。
湊川では新田義貞も敗れ、身を守る楯を失った朝廷は激しく動揺しますが、この時点においてもなお京に固執して避難することを拒みます。
そんな重臣たちを一括したのが、隠岐を脱出して以来の功臣である名和でした。
動座にあたり、持明院統の光厳院を一緒に比叡山に連れ去る予定であったのですが、先を見越した足利の手の者によって足利方へ攫われてしまいます。
比叡山へ非難した後醍醐帝と足利勢は、京を巡り烈しい市街戦を繰り広げますが、決着は付かず、両陣営に厭戦気分が蔓延していきます。
その雰囲気を感じ取った尊氏は、偽りの和議を後醍醐天皇に持ち掛けるのでした。
和議を持ち掛けられた後醍醐天皇は、死力を尽くして戦っている義貞たち武士に相談する事無く、和議を結ぶことを決めてしまいます。
後醍醐天皇に捨てられた義貞は、裏切りの謝罪として帝から与えられた親王を連れて、北陸へ脱出していきます。
和議を結んだ後醍醐天皇ですが、帝に相応しい待遇は与えられませんでした。
三種の神器も奪われ幽閉の身となってしまいます。
『太平記 第5巻』のおススメ度はいくつ?
おススメ度は80点です。
何と言ってもこの巻のクライマックスは楠木正成の討死でしょう。
正成が最後の戦いに臨む件は、読んでいて辛くなります。
この巻あたりから、読者は頭の固い公卿に対して憎しみを感じ始めると思います。
どうして楠木正成は後醍醐天皇に従い続けたのだろう?
現代において、楠木正成は朝廷に殉じた忠臣として位置づけられています。
それに対して意義を唱えるつもりはありません。
事実だけを見れば確かに忠臣です。
でも・・・
なんで最後まで後醍醐天皇を裏切らなかったのか謎です。
いわゆる武士道(忠義や裏切らないなど)は、この頃の武士には皆無だったはずで、実際に太平記に登場する多くの武士は、節操ないほどにコロコロと旗印を変えています。
実際、どう贔屓目に見ても、後醍醐天皇に尽くしても武士にとって良い世の中になるようには思えません。
それにも関わらず、正成が最後まで後醍醐天皇の元を離れなかった理由が謎です。
仮に、正成が後醍醐天皇に心酔し、個人に対して忠誠を誓ったのであるとしたら、湊川であっさりと先に死んではダメだと思います。
周囲になんと言われても後醍醐天皇を連れ去るか、もしくは楠木一族だけで篭城して後日に期す、など幾らでもやり方があったのではないでしょうか?
しかし、正成は朝廷に言われた作戦に唯々諾々と従い『あっさりと討死』してしまいます。
言葉が悪いことは承知しています。
でもまるで『信を曲げぬことが自分の美学』とでも言うような死に方です。
そう思ったら、別の回答が頭に浮かびました。
正成が忠誠を誓ったのは後醍醐天皇ではなく、天皇を中心とした政治体制(朝廷)に忠誠を誓ったのではないのか?
つまり、後醍醐天皇を裏切らないことが彼の美学ではなくて、自らの理想(朝廷が頂点に立つ政治体制)のために戦い抜くことが彼の美学だったのではないか?
そう考えると、朝廷の命令に従い戦死したことに、理由付け出来るような気がするのですが、強引過ぎでしょうかね?
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