太平記第6巻(著:森村誠一)を読んだ!
第1巻は内部崩壊がすすむ鎌倉幕府と、倒幕に向けて動きだす後醍醐天皇と楠木正成が描かれていました。(1331年10月)
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第2巻は隠岐の島へ流された後醍醐天皇と、弱体化が止らない幕府が描かれていました。
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第3巻は隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、幕府を裏切り六波羅探題を滅亡(1333年5月7日)させる足利尊氏が描かれていました。
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第4巻は新田義貞による鎌倉滅亡と建武の親政。そして発足間もない新政権が脆くも崩れ去る様について描かれていました。
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第5巻は、尊氏が後醍醐天皇の元を離れ独立を果たす様と、正成の死(湊川)が描かれていました。
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今回の記事は第6巻のまとめです。
南北朝の成立と時代を彩った巨星たちの退場が描かれます。
『太平記 第6巻』のあらすじ
足利尊氏と和議を結んだ後醍醐天皇に置き去りにされた新田義貞とその軍勢は、北陸へ逃れます。しかし、冬の峠越えは苦しく、多くの将兵を失ってしまいます。
和議を結んで京へ戻った後醍醐天皇ですが、その待遇は想像以上に酷いものでした。
三種の神器を取り上げられ持明院統に帝位を奪われ(北朝)た上、軟禁状態に置かれてしまいます。
約束が違うと憤る後醍醐天皇は、隙を見て脱走し、吉野へ逃れて自らの朝廷が正統であると訴え(南朝)、全国に激を飛ばします。
北陸に逃れた義貞は後醍醐天皇の激に応えようとしますが、逆に足利方に追い込まれて拠点を失い、軍勢を集めるのに時間を要してしまいます。
一方、奥州探題の北畠顕家は1336年の上洛についで1337年も上洛の軍を起します。
顕家が率いた奥州軍は北関東を席巻し、北条の忘れ形見である時行も幕下に抱えこみます。瞬く間に鎌倉を制圧すると、膨れ上がった軍勢を率いて京奪回を目指します。
彼が率いる奥州軍は無類の強さを誇り、連戦連勝、京へ突き進みます。
ところが、京を目と鼻の先に捉えたところで、何故か伊勢路へ転進してしまいます。
この行動が、奥州軍から勢いを奪ってしまいます。
以降、当初の勢いを失った奥州軍は苦戦を強いられ、兵力に優る足利の軍勢にジリジリと追いつめれていくのでした。
そして、1338年6月10日、南朝の希望の星・顕家は戦死します。
顕家を失って動揺する南朝方に、更なる悲劇の知らせがもたらされます。
1338年8月17日、北陸から京を目指して進軍中であった義貞ですが、敵の罠にかかりあえなく討死してしまいます。
南朝を支えてきた軍事面での両輪を失った後醍醐天皇は、失地回復のための乾坤一擲の策を打ち出します。
伊勢大湊から大船を出して、顕家が南朝の得を植えつけたはずの陸奥に親王を向わせ、再び軍勢を起させる計画でした。
しかし、南朝最後の希望を乗せた船団は、途中で嵐に遭い難破して崩壊し、多くの将兵を失ってしまうのでした。
ここに到り、これまで何度と無く苦境を乗り越えてきた後醍醐天皇も気力を失ってしまうのでした。
義良親王(後村上天皇)へ譲位した翌日、1339年9月19日、吉野金輪王寺にて崩御。
南朝方は支柱を失い、北朝方(足利)によって一気に踏み潰されてもおかしくない状況に陥るのですが、この南朝を救ったのは他でもない北朝方(足利)の確執でした。
尊氏は、自らの政権運営を2人の重臣に委ねます。
政治面は弟である直義。軍事面は足利家の筆頭家臣であった高一族に委ねます。
この二人は馬が合わず、次第に溝を深めていくことになります。
小康状態が続いていた南北両朝の争いですが、楠木正成など忠臣たちの遺児達が成長すると、再び激しさを増していき、正成の息子である正行、正時兄弟は近畿地方で北朝方を苦しめます。
彼らの活躍は、南朝にとっては久々の明るいニュースでした。
しかし、正行、正時らは両陣営の力関係を考慮すると、正面決戦では勝機はなく、あくまでも小軍勢でのゲリラ戦で少しずつ力を蓄えるべきだと考えていました。
しかし、南朝方の重臣(公卿)・北畠親房(顕家の父)らは、武士の進言を受け入れず、彼らを正面決戦へと駆り立てるのでした。
父と同じく、勝ち目の無い戦を余儀なくされた兄弟は、足利方の軍事面を握る高一族に決戦を挑み、相次いで戦死することになります。(四條畷の戦い:1348年)
南朝方の攻勢を力でねじ伏せ、吉野から追い払うと高一族は我が世の春を迎えます。
その結果、直義との溝は深まる一方ですが、軍事面を握る高一族は意に介しません。
むしろ、策を練って直義を暴発させた高一族は、武力を持って直義が逃げ込んだ尊氏の屋敷を取り囲み、ついに直義を政治面のトップから引き摺り下ろすことに成功します。
兄のためを思い、泣く泣く高一族との和議を受け入れた直義ですが、次第に今回の騒動は高一族と兄が結託し、邪魔な自分を嵌めたのではないかと疑い始めます。
その疑心暗鬼は日に日に募り、ついには兄が京を不在にした際に挙兵して高一族を捕らえて主だった人間を処刑してしまいます。
その後、直義は兄と和解しますが、もはや以前の様な兄弟には戻れませんでした。
尊氏も弟がいつか自分を排除するのではないかと恐れた結果、ついにあろうことか南朝と和議を結び、直義討伐の綸旨を得るのでした。(南北朝の一時的な中断)
凄惨な兄弟喧嘩の末、直義を捕らえた尊氏は弟を鎌倉に幽閉し、毒殺してしまいます。
こうして、尊氏の下に全ての権力が収まるかと思われた時、再び戦乱が関東の地で沸き起こります。
新田義貞の遺児が挙兵し、鎌倉は再び制圧されてしまいます。
尊氏は自ら軍勢を率い、鎌倉を奪回します。
すると今度は京において事変が起きます。
尊氏と手を組んだはずの南朝が京都を制圧。
南朝最後の大物、北畠親房の策略でした。
そのため、尊氏は再度軍勢を率いて京を攻め落とし、再び持明院統の1人を担いで北朝を起すのでした。
こうして、世は再び南北朝時代となります。
その後も両朝における京を巡る小競り合いは続きますが、南朝最後の大物・北畠親房の死によって急速に勢力が弱まります。
そして、両朝合体が見えたこところで、更なる戦乱が世をかき乱します。
九州から足利直冬が軍勢を率いて攻めあがってきます。
彼は尊氏の実の息子でしたが、直義の養子であったため、父の仇を討つと称して上洛してきたのでした。
凄惨な親子喧嘩が繰り広げられた結果、尊氏はなんとか勝利を収めます。
ついに、太平記を彩った最後の巨星が退場します。
1358年6月7日、足利尊氏逝去。
後を息子である義詮に託し、この世を去るのでした。
尊氏の死後、時代の趨勢は北朝(足利)方に傾いていきます。しかし、正成の三男・正儀らが南朝を支え、両朝合体を果たすまで、尊氏の死後なお30年の月日が必要となるのでした。
1392年、3代将軍・足利義満の働きかけにより、大覚寺統と持明院統の両統迭立などを条件として、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、ようやく南北朝が合体を果たします。
『太平記 第6巻』のおススメ度はいくつ?
おススメ度は70点です。
長かった太平記もついに完結しました。
最終巻は、読んでいてちょっと急ぎ足過ぎると感じました。
三国志で言えば、孔明亡き後の三国志みたいな感じです。
もう少し・・・登場人物を深く描写してほしかったです。
北畠顕家と新田義貞が戦死してしまうと、感受移入できる人物が居なくなります。
また、楠木一族も正行、正時の人物像は殆ど描かれておらず、正儀に到ってはほぼ名前だけで残念でした。
『太平記 全巻』のおススメ度はいくつ?
悩んだのですが75点にしておきます。
やっぱり、最終巻が寂しいです。
慌しい最後だったのが残念でなりません。
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鎌倉に『鎌倉時代の建造物』は現存しているのか?
今回の太平記は読みながら色々と勉強することが多かったです。
その所為で、なかなか先に進まないこともありました。
最終巻のまとめ記事には『太平記』を読みながらずっと感じていた疑問点をしらべたのでまとめておきます。
それは・・・
「鎌倉には『鎌倉時代の建造物』があるのか?」
です。
実家から近いこともあり、今まで鎌倉は何度も訪れています。
しかし、訪れた寺社が何時代のモノなのか意識したことはありませんでした。
そこで、色々と調べてみました。
結論から言うと・・・
「鎌倉には『鎌倉時代の建造物』はない!」
鶴岡八幡宮も、長谷寺も、大仏さんも、頼朝さんの墓も、鎌倉時代のものではなくて後世のモノになるそうです。
その理由としては、やはり「戦火」でしょうね。
太平記でも何度も鎌倉は主が入れ替わっていますからね。
それと「都の機能が失われたから」だと思います。
室町時代は京、そして江戸時代は江戸が中心となった訳で、古都鎌倉は廃れる一方だったことが原因だと思います。
では、鎌倉には鎌倉時代からのモノが何一つ無いのか?
と言うとそんな事はありません。
以下の4つの梵鐘が有名です。
●建長寺梵鐘/国宝/建長寺の三門(山門)横の鐘楼
●円覚寺梵鐘/国宝/弁天堂側の鐘楼
●常楽寺梵鐘/国宝/鎌倉国宝館にて展示
●長谷寺梵鐘/重要文化財/長谷寺の観音ミュージアムに展示
今度、鎌倉の大塔宮(鎌倉宮)へ参拝に行く際に寄ってみたいと思います。
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