太平記第3巻(著:森村誠一)を読んだ!
第1巻では崩れ行く鎌倉幕府と幕府のくびきから逃れようとする後醍醐天皇。それに呼応して挙兵した正成が赤坂城に立て篭もる様が描かれていました。(1331年10月)
第1巻の記事はこちら
『太平記 第1巻』を読んだ! - lands_end’s blog
第2巻は、六波羅探題に幽閉され、後に隠岐の島へ流される後醍醐天皇の描写から始まります。
そして、1332年11月、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野で挙兵し、呼応するように正成も再び挙兵、幕府方は反乱を押さえ込めず徐々にジリ貧となって行く様が描かれていました。
第2巻の記事はこちら
『太平記 第2巻』を読んだ! - lands_end’s blog
第3巻では幕府の崩壊が始まります。
読み終えましたので『太平記第3巻』をまとめます。
『太平記 第3巻』のあらすじ
楠木正成は、伯耆の名和一族を取り込み、隠岐に流された後醍醐天皇が暗殺される前に救い出すように密命を下します。
隠岐に流された帝に随行した寵妃・阿野廉子が、警備の者を誑かして帝の脱出の手引きを進めます。脱出を始めてすぐに露見し、警備の兵に追われますが幸運も重なり辛くも無事に隠岐の島を脱出して本州に辿り着きます。
そして、地元の豪族・名和一族を頼ることにするのでした。
名和一族としては、帝を北条方に差し出して褒賞を得るか、それとも帝を戴いて倒幕に加担するか悩むのですが、最終的に帝を守り倒幕の軍を興すことにするのでした。
この頃、正成が篭る千早城で壮絶な攻防戦が繰り広げられます。
万の軍勢で取り囲むも攻め落とすことが出来ず、地下に坑道を掘り、攻城兵器を作り攻め掛けてもことごとく退けられ多くの犠牲者をだしてしまいます。
正成の篭る小さな山城1つ落とせないことに痺れを切らした幕府は、ついに足利尊氏に命を下します。幕府は、尊氏の家族を鎌倉に人質に取り、戦いに向わせるのでした。
しかし、上方の状況は芳しくなく、後醍醐天皇の激を受けた播磨の赤松や千種などの軍勢が度々京を伺い侵入を試みている有様でした。
六波羅は何とか都を守っていましたが、ジリ貧になりつつありました。
そこへ、鎌倉から若き大将・名越と足利尊氏が軍を率いて到着します。
六波羅勢は救世主到来と沸きたち、反乱軍を一掃するため攻撃に転じます。
攻撃前に尊氏の陣を訪れた佐々木道誉は、尊氏をそそのかすのでした。
「何があってもお味方しますぞ・・・」と。
六波羅勢の反撃は凄まじく、赤松や千種の軍は打ち破られ後退を余儀なくされます。しかし、大将の名越が討ち取られると形勢は逆転し、名越と六波羅軍は崩壊します。
味方の敗走を見た尊氏は、助けには向かわず自領の丹波国篠村へ撤退します。
そしてついに、後醍醐天皇の呼びかけに応え、倒幕の旗印を明確にします。
尊氏の裏切りによって勢いは完全に後醍醐天皇側に傾き、尊氏は赤松、千草、佐々木などの軍勢と共に都を目指します。
1333年5月7日、六波羅探題滅亡。
六波羅の滅亡により、正成の篭る千早城を包囲していた鎌倉からの遠征軍も散り散りとなるのでした。
同時期、千早攻めから無断で軍を引き上げ、上野国の自領に戻っていた新田義貞の下に、反乱軍鎮圧のための軍資金の提供を促す鎌倉の使者がきます。
これまで、一族のためと忍耐を重ねていた義貞でしたが、度重なる要求に対し、ついに鎌倉に対して反旗を翻すのでした。
決起した当初、義貞の軍勢は僅か150騎でしたが、全国の同族に激を飛ばします。
しかし義貞は兵が集まるのをまたず、攻撃に転じて幕府方の守護を打ち破ります。そこへ続々と同族が兵を率いて集まり、さらに鎌倉で人質にされていた尊氏の息子が無事に鎌倉を脱出して新田軍に参加してくるのでした。
ところが、初めは新田軍の客将扱いだったはずの尊氏の息子が、なぜか次第に総大将のような扱いになっていき、義貞としては不満を溜めるようになるのでした。
150騎から数万の軍勢に膨れ上がった新田軍は、鎌倉の迎撃部隊を小手指原の戦いで打ち破り、ついに鎌倉包囲します。
そして、難攻不落の都市・鎌倉へ3つの口から侵攻を開始するのでした。
『太平記 第3巻』のおススメ度はいくつ?
おススメ度は80点!
読みながら、学生の頃の記憶が蘇りました。
- 後醍醐天皇の隠岐の島遠流
- 帝の脱出と名和一族の蜂起
- 楠木正成の千早城
- 足利尊氏の裏切りと六波羅の滅脳
- 新田義貞の裏切りと鎌倉攻め
第3巻はあっという間に読んでしまいました。
続いて、『太平記 第3巻』を読みながら調べたことをまとめます。
六波羅探題って何だっけ?
六波羅探題と言う名称は知っています。
知っていますが、よくよく考えてみると六波羅探題という名前しか知らない。
学校で習う日本史で登場するのも、鎌倉幕府が滅びる際にひょっこり出てくる程度で、知名度はかなり低いと思う。
しかし今回、太平記を読んでいると何度となくこの名称が出てくるので、今一度、どんな機関でどんな仕事を任されていたのか?を調べなおしてみました。
調べたことを、簡単にまとめておきます。
六波羅という名前の由来と場所
六波羅は、京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名であり、現在の京都市東山区の一部です。
977年、この地にあった西光寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになったそうです。
六波羅探題の探題とはどんな意味?
探題(たんだい)とは、鎌倉幕府や室町幕府において、政務について裁決を行う重要な職をいう。
私はてっきり六波羅探題という地名だと思っていました。
歴史が好きなはずなのに、意外と興味の無い時代の知識はいい加減です。
六波羅探題が出来た理由
平氏全盛期には六波羅周辺には平家一門の屋敷が立ち並んでいましたが、平家の没落後は六波羅の土地は源頼朝に与えられます。
鎌倉時代初期は京都守護の庁舎がありましたが、1221年に承久の乱が起きた際に、鎮圧のために鎌倉から大軍を率いて上洛した北条泰時・北条時房が、六波羅の地の南北に分かれて駐屯して政務を取り仕切るようになります。
これが、六波羅の始まりだそうです。
ちなみに当初は単に六波羅とだけ呼び、鎌倉時代の末期になって六波羅探題と呼ばれるようになりました。
探題が南北2つ存在した理由
鎌倉の執権にも副執権と言える連署という役職があったように、六波羅北探題が執権役を司り、六波羅南探題が副執権役的な立場となっていたようです。
単に、最初に2人で開いたからという事でしょうかね。
ちなみに、北の方が偉いのは間違いないようです。
探題の長には誰がなったのか?
有力な御家人が職に就く事はなく、必ず北条一門から選ばれたようです。
また、将来が有望視される若い人材が選ばれ、探題職を勤め上げた後に、鎌倉に戻って執権や連署の職まで上り詰める者もいたそうです。
六波羅探題はどんな仕事をしたのか?
そもそも設置された理由は、朝廷(後鳥羽天皇)が倒幕の兵を挙げたのを鎮圧することでした。
それゆえ、六波羅探題の設立目的は朝廷の監視でした。
その後、幕府の出先機関として様々な任務が追加されていきます。
●担当地域
三河(現:愛知)から西の国々です。
●担当職務
朝廷の監視
地頭と国司などの紛争を処理する裁判権
京都周辺の治安維持
皇位決定の取り次ぎ
御家人処罰の権限と裁判権
太平記の記述では、あくまでも鎌倉の出先機関みたいな記述もみられますが、西日本に対してはかなり強大な権力を有していたことが判ります。
それにしては、後醍醐天皇の蠢動を掴めないのは不思議ですが、すでに鎌倉末期の六波羅探題は衰退していたのでしょうかね?
そのあたりは後日の宿題です。
次回の『太平記第4巻』は鎌倉幕府の滅亡から建武の親政の頃になります。
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