太平記第4巻(著:森村誠一)を読んだ!
第1巻では崩壊する鎌倉幕府と倒幕の姿勢を明らかにする後醍醐天皇、そして帝の激に呼応して挙兵した楠木正成が描かれていました。(1331年10月)
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『太平記 第1巻』を読んだ! - lands_end’s blog
第2巻は、隠岐の島へ流された後醍醐天皇が再起を図るさまと、護良親王や正成お挙兵を押さえ込めない幕府の弱体化が描かれていました。
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第3巻は隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、ついに幕府に反旗を翻す足利尊氏、そして六波羅探題の滅亡(1333年5月7日)が描かれていまし。
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今回の記事は第4巻のまとめです。
関東にて挙兵した新田義貞の軍勢により、鎌倉幕府は終焉の時を迎えます。
- 『太平記 第4巻』のあらすじ
- 『太平記 第4巻』のおススメ度はいくつ?
- どうして鎌倉幕府後期から室町幕府にかけての知識が乏しいのか?
- 建武の親政っていったい何をしたかったの?
- 建武の親政が失敗した理由は?
『太平記 第4巻』のあらすじ
大軍で鎌倉を包囲した新田軍ですが、三方を山に囲まれ、海に面した難攻不落の都市という鎌倉の触れ込みは伊達ではありませんでした。
鎌倉通じる7つの街道のうち、化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂の3つの街道を使って総攻撃を仕掛けますが、険しい切通を抜けることが出来ずに攻めあぐねていました。
苦戦する義貞の下にある情報がもたらされます。
鎌倉に通じる道には8つ目の街道がある。と。
稲村ガ崎の海岸は、普段は崖の直ぐ下まで海が迫り通行することは出来ません。しかし、干潮のときだけ僅かな干潟が顔をのぞかせます。
義貞はその攻め口を利用して市内に突入します。
幕府側は寡兵のため、海岸沿いに十分な兵を配置することが出来ず、進入した義貞を討ち取る事が出来ませんでした。そのため、守り抜いてきた切通を内と外の両方から攻められて、ついに鎌倉は陥落するのでした。
数十万の大軍に蹂躙され鎌倉の町は崩壊し、執権・高時をはじめとした北条一門は東勝寺へ逃れます。しかし、もはや劣勢を覆すことは不可能であり、高時の男児2名に再起を託して落ち延びさせ、一族は自害して果てるのでした。(1333年5月22日)
鎌倉を攻め落とした討幕軍でしたが、決して一枚岩とは言えませんでした。
1つは最初に決起した新田義貞と同族の軍。
もう1つは、新田軍に寄生しつつも総大将の如く振舞う足利尊氏の息子とその軍勢。
彼らの鎌倉における権力争いは、尊氏が先を見越して鎌倉に派遣した足利の重臣たちによって足利方優位となり、義貞は鎌倉に覇権を建てる事が出来なくなり京へ向うことになるのでした。
鎌倉滅亡の報せは、隠岐を脱して都を目指していた後醍醐天皇の元にも届きます。
念願叶い都へ戻る途中、後醍醐天皇の倒幕活動を初期の頃から助け、赤坂・千早城で篭城して戦い続けた楠木正成が駆けつけるのでした。
都へ戻り、後醍醐天皇は天皇自身による政を行うための政権を作ります。
しかし、帝の息子である護良親王が軍を集めて吉野に篭城してしまいます。
親王は、最後の局面で幕府を裏切って漁夫の利を得た尊氏を敵視していました。
尊氏の軍は殆ど犠牲を出しておらず、天皇親政の脅威になると考え、対抗するために武力を蓄えるしかないと考えていたのでした。
しかし、戦を終えて再建を目指したい帝から諌められ、尊氏を牽制するために征夷大将軍の称号を授けられると、しぶしぶ都へ戻るのでした。
帝による親政が始まりますが、新しい世は直ぐに綻びを見せ始めます。
身を粉にして働いた武士への恩賞は薄く、単に帝の側に侍っていた公家や僧侶が大きな恩賞を手にしたため、武士階級の反感は日に日に募っていきます。
やがて武士の多くは、源氏の嫡流である足利尊氏に期待を寄せていくのでした。
このままでは親政にとって脅威になると考えた護良親王は尊氏の排除を試みます。
不穏な空気を感じた尊氏は、帝の寵妃である阿野廉子に近づきます。
彼女は、自分自身の子供を皇太子に据えたいと考えており、護良親王を排除したいという点において、尊氏と意見を共にしていました。
そしてついに、阿野廉子らは帝に護良親王謀反の疑いを讒訴します。
後醍醐天皇は、今、尊氏の協力を失うと自らの政権運営が崩壊しかねないと考え、泣く泣く、自らを守る大切な楯でもあった護良親王を罷免し、しかも鎌倉に配流してしまうのでした。
さらに、自らの政権を支える柱であった北畠親子を、阿野廉子の進めに乗って陸奥へ派遣してしまいます。
こうして、鎌倉幕府滅亡から僅か2年で新しい世は崩壊を始めるのでした。
この頃、北条の生き残りが信州で挙兵します。
鎌倉滅亡の際に、北条家再起のために逃がした高時の息子の1人・時行を旗印にして、北条一族が挙兵し、瞬く間に関東を席巻して鎌倉を目指すのでした。
鎌倉を任されていた尊氏の弟・直義は軍を率いて迎え撃ちますが撃破されてしまい、鎌倉を捨てる決意をします。その際、北条方の手に渡ると後々面倒になると考え、彼の保護下にあった護良親王を弑し奉るのでした。
挙兵の報を知らせれた尊氏は、討伐のために帝に征夷大将軍の位を要請します。
しかし帝はその要請を拒否し、皇子の1人に征夷大将軍の位を授けて軍を与えて討伐に向わせます。
すると、佐々木道誉に唆された尊氏は、勅命の無いままに軍を率いて出陣します。慌てた帝は後から征東将軍の位を与えるのでした。
駿河の国で激突した討伐軍と北条軍は、各地で激戦を繰り広げますが、次第に北条方が劣勢となります。
そして、鎌倉を奪回して僅か20日で、北条は再び鎌倉を追われることになるのでした。
中先代の乱(1335年7月挙兵、25日鎌倉を制圧、8月19日足利方が鎌倉再奪取)
『太平記 第4巻』のおススメ度はいくつ?
おススメ度は80点です。
- 新田義貞による鎌倉攻撃
- 楠木正成と護良親王の晴れの舞台
- 北条時行による反乱と鎌倉制圧
- 足利尊氏による鎌倉再奪取
手に汗握る戦闘シーンの連続です。
この巻までが、曲がりなりにも後醍醐天皇と尊氏が共栄を図ろうとした時期の話となっています。
どうして鎌倉幕府後期から室町幕府にかけての知識が乏しいのか?
中学や高校の日本史の授業では、鎌倉幕府が滅びると後醍醐天皇が親政(建武の親政)を始めるが、武家の棟梁である足利尊氏が離反して瓦解。
そして、南北朝時代と室町幕府の始まり。
という感じに習った記憶(とても遠いが・・・)がある。
そして、親政が失敗した理由は、後醍醐天皇が武士ではなく公卿を重んじて、武士階級の反感を買い、その溝につけこんだ尊氏が親政を打倒して自らの幕府を開いた。
- だから、尊氏はこすい男だ。
- よって、尊氏は嫌いだ。
- ついでに室町幕府も嫌いだ。
- その結果、南北朝や室町時代の事をあまり好んで勉強しなくなる。
こうして南北朝や室町時代のことは殆ど知らずに過ごしてきました。
私は自分が歴史好きと思っていたが、どうやら偏食だったようです。
理由はともかく、今まで知ろうとしなかったために、今回「太平記」を読んでいると数多くの疑問や不明点が沸いてきました。
そのため、改めて調べなおしました。
せっかくなので、調べたことを記録しておきます。
建武の親政っていったい何をしたかったの?
色々と本を読み、ネットで情報を探しました。
その結果、私は以下の結論に達しました。
あくまでも私個人の見解なので、それは違う!というクレームは無しでお願いします。
「後醍醐天皇が、自身で全てを決めたかった」
武家から権力を取り戻すとか、かつての律令国家体制に戻すとかではなく、後醍醐天皇は全ての権力を握る皇帝になりたかったのだ。
そう結論付けた理由は次の通りです。
- 後醍醐天皇は公卿一辺倒ではなく、武家も公卿も等しく失望させています。
- 自らの政権運営のための階級や家柄を無視した人材の登用は、派閥や権力の固定化を防げる開明的な実力主義でした。(もちろん反発を受ける)
- 武士階級を政治に関わらせないのは、政治と軍事の両方を司るのは己だけにしたかった。
- 当時の人々にとって最も大事な「土地」に関しては「全ての土地は天皇の所有であり、その土地を誰に貸し与えるかは天皇自身が決める」とした。
後醍醐天皇が何故に周囲と協調していけなくなったのか理解出来ました。
建武の親政が失敗した理由は?
後醍醐天皇は絶対権力者である皇帝になりたかった!
それが建武の親政の実態だ!
と結論付けた訳ですが(個人的な見解ですからね!)、その帝の狙いがあっさりと失敗した理由が不明でした。
学校時代の記憶では・・・武士に不平等な政策で離反され、その不満を糾合した足利尊氏に政権を乗っ取られた。と理解していました。
この記憶、どうやら大きくは間違っていないと思います。
ただ、決して公卿を無条件で優遇していたわけではないようです。
帝は、それまでの慣習に囚われず、関白や摂政、または院政を廃止して天皇自らが政治を行ったわけであり、それまでの家柄等を重視する人々からは不満が出たはずです。
まとめますと、失敗に終わった要因は以下の5つだと考えます。
その1 後醍醐天皇自身が実力行使を行える武力を持たなかったこと
私の持論ですが絶対権力者になりたかったのに、実力行使をする武力がなければ誰にも言う事を聞かせられません。
鎌倉幕府を倒すのに、武士の力を借りざるを得なかったことが最大の失敗でしょう。
護良親王が親政後に征夷大将軍となり、帝のための軍事力を作ることに腐心しますが、尊氏の策略に躍らされて自らその武力を切り捨てる形となった時点で、親政の失敗は決まっていたのだと思います。
その2 土地を巡る争いで武士の反感を高めてしまったこと
権力を握ったことを明確にするためにも、土地の所有権を自らが決めるべく後醍醐天皇は土地の所有権に対して「綸旨」を出しまくります。
しかし、これが混乱を引き起こします。
勉強している時に初めて知ったのですが、この時代、ある土地に20年居座っていたら自分の物になったそうです。
二十箇年年紀法
このような慣習があったのに、下手したら遥か昔にその土地にいたらしい公家に土地所有権の綸旨が出されとあっては武士としても大慌てです。
当然、はいそうですか。と返さないし、不満は抱くし、公家側も取り戻せないことで後醍醐天皇への不信に繋がるし・・・。
混乱と不信が増大する結果を自ら招いてしまいました。
帝自身に実力行使出来る武力があれば、不平不満を押さえ込んで思うままに行えたのでしょうが・・・。
その3 恩賞が不平等すぎたこと
鎌倉幕府を倒して新しい世を作るために必死に働いた人々への恩賞が公平ではありませんでした。
もっとも強大な武力を誇る尊氏はともかく、帝を初期から支えた赤松などは逆に自らの土地を取り上げられる等、理解し難い恩賞に対して離反してしまいます。
その4 朝令暮改の政策で求心力を失ったこと
結局、流浪時代に後醍醐天皇の側を離れなかった人、またはそれらの人々と誼を通じた人、帝が無視出来ない武力を保持している人、だけが良い目を見ることになり、その上、実力行使が出来ない帝の綸旨は果たされず、朝に出した命令を夕方には取り消すなど、一貫した政策など行えない状態となります。
これでは、求心力はがた落ちです。
その5 内裏の造営や貨幣の鋳造等で経済を混乱させたこと
実力も伴わず、かつ戦争で経済が疲弊しているにも関わらず、権力の象徴である己の住まいの見栄えを良くする為に内裏の造営を行います。
さらに、内裏を造営する元手がないと貨幣を発行して一時的に資金を得ますが、元手なくして発行された貨幣等は経済を混乱させるだけでした。
経済も落ち込み、人心も落ち込み、商人や一般の大衆に至るまで後醍醐天皇の世に期待しなくなってしまいます。
全6巻構成の太平記も後半に入りました。
次は5巻です。
正成が最後を迎えると思われます。
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