lands_end’s blog

未破裂脳動脈瘤との闘いをコーギーに癒され暮らしています。鹿島アントラーズの応援と読書に人生の全てを掛けている40代の徒然日記です。

スポンサードリンク


『太平記 第2巻』を読んだ!



太平記第2巻(著:森村誠一)を読んだ!

第1巻は、崩壊への道を突き進む鎌倉幕府の体たらくが主に取り上げられていました。
しかし、遠い学生の頃の記憶だけを頼りに内容を理解するのは非常に困難であり、改めて鎌倉幕府の将軍や執権について、さらには北条家の内管領について、はてはこの先南北に分かれる2つの皇統について、改めて調べなおす必要がありました。
調べた結果は第1巻の記事で簡単にまとめました。
『太平記 第1巻』の記事はこちらから

『太平記 第1巻』を読んだ! - lands_end’s blog

とにかく、おぼろげだった知識を整理してから第2巻読み始めたところ、依然として「???」となる名称があるにはありましたが、第1巻ほどに度々途中で読むのを中断して調べないといけないほどではなく、一気に最後まで読みきることが出来ました。
そのお陰かもしれませんが、第1巻とは異なり、第2巻は躍動感が溢れる巻でした。

『太平記 第2巻』を読み終えましたので感想をまとめます。

 

『太平記 第2巻』のあらすじ

第1巻は楠木正成が立て篭もる赤坂城を炎上させ、自らの死を偽装したところで終了しました。(1331年10月)

第2巻は、立て篭もった笠置山からの脱出に失敗し、六波羅探題に幽閉された後醍醐天皇の様子から始まります。

六波羅(北条方)の天子に対するあるまじき対応、そして正成の命を受けて救出を試みるが失敗する様が描かれています。
まあ、後醍醐天皇が信頼した側近が各地で首を打たれてしまいます。
1324年の正中の変で、一身で罪を負って佐渡に流された日野資朝、資朝と並び帝の重要なキーパーソンであった日野俊基を処刑します。また、軍を率いた将も各地で首を打たれ、後醍醐帝を孤立させていきます。

帝の正当性を示す三種の神器を失っただけでなく、側近も失った後醍醐天皇ですが、六波羅が立てた持明院統の光厳天皇(北朝側の第1代目)の権威を認めず、自らが正当なる帝であるという自負を持ち続けるのでした。その、帝の揺るがぬ心の拠り所となったのが、赤坂城で死んだとされていた正成の存在でした。
赤坂城で死んだとされた正成ですが、密かに帝へ連絡をつけ、正成がいる限り気を落とすなと勇気づけていたのでした。

幕府の命により、後醍醐帝は隠岐に流されることになります。
隠岐への船着場まで警護をしたのが、鎌倉幕府創設時の功臣である佐々木氏の末裔で近江を本拠地とする佐々木道誉でした。
警護の道中における様々な描写によって、佐々木道誉の人となりが判りますし、彼の太平記におけるこれからの役割などが暗示されています。

1332年11月、後醍醐天皇の息子である護良親王が吉野で挙兵します。
親王の挙兵を受け、潜伏していた楠木正成が河内赤坂、千早城にて再挙兵し、赤坂城を奪回するのでした。
吉野での親王の挙兵、そしてなによりも死んだと思っていた正成の挙兵に驚いた幕府側は大軍を編成し、討伐に向わせるのでした。

1333年、大軍で取り囲んだ赤坂城を攻め落として喜んだ幕府軍でしたが、正成がその背後に築いていた千早城の存在にようやく気付くのでした。
この千早城こそ正成の本拠でした。
赤坂城を攻め落とした余勢を駆って城攻めを始めますが、山そのものを要塞化している千早城はまさに難攻不落であり、幕府軍は多くの死傷者を出して攻めあぐねることになるのでした。

ちなみに、この千早城攻めの最中に、新田義貞は病気と称して陣中を離れ自分の領地へ戻ってしまいます。彼のこの動向は、この後の展開を暗示させるものとなります。

 

『太平記 第2巻』のおススメ度はいくつ?

おススメ度は75点です。

前半の後醍醐天皇の隠岐への島流し関連の話は盛り上がりに欠けますが、護良親王と正成の倒幕への挙兵が始まると、合戦の匂いが充満してきて、俄然盛り上がります。

まあ、正成が反則的なまでに強すぎるのですが・・・。

太平記(二) (角川文庫)

太平記(二) (角川文庫)

 

 

『太平記 第2巻』を読んで調べたこと

この2巻も、読んでいる最中に「???」となる人の名前や職種が数多くが出てきましたので、読後、理解するために調べました。

調べた結果を、せっかくのなので記しておきます。

 

吉野で挙兵したのは護良親王と大塔宮は別人なのか?

読みながら混乱したので確認してみました。

護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。

護良親王 - Wikipedia

うん。間違いなく同一人物ですね。

 

どうして護良親王は大塔宮と呼ばれたの?

なかなか答えが見つからずに悶々としたのですが、ネットの世界は凄いですね。
デジタル大辞泉に次のような記述がありました。

1:《比叡山延暦寺の大塔に住んだところから》天台座主(ざす)になった皇族。
2:護良(もりなが)親王の異称。また親王を祭る鎌倉宮の異称。

kotobank.jp

護良親王は1318年に尊雲法親王として梶井に入室し、1328年(嘉暦3年)に天台座主となりました。
その経緯から、親王は大塔宮と呼ばれたのだと思います。

たぶん、この理解で正しいはず・・・。
間違っていたら誰か教えてください。

 

護良親王の墓所は鎌倉にある!

鎌倉は地元に近く、度々訪れたことがあるけど、全く知りませんでした。
この先、太平記を読み進めていくと護良親王の最後が描かれるシーンもあるのでしょう。どんな最後になるのだろう?

ちなみに、鎌倉宮が護良親王を祭っているので、そちらにお墓があるのかと思いきや、ちょっと違うようでした。

www.kamakuraguu.jp

 

実際のお墓は理智光寺跡にあります。宮内庁が管理する墓所だそうです。

 

太平記を読み終えたらお参りしてみようと思います。

 

次回は『太平記3巻』です。
隠岐に流された後醍醐帝の脱出から話は始まります。

 

↓おすすめの本と漫画のブログランキングはこちらへ!

本ブログランキング

 

↓応援ありがとうございます! 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

スポンサードリンク