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未破裂脳動脈瘤との闘いをコーギーに癒され暮らしています。鹿島アントラーズの応援と読書に人生の全てを掛けている40代の徒然日記です。

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『遁げろ家康』を読んだ!



遁げろ家康(著:池宮彰一郎)を読んだ!

歴史小説を読みたくなり、本棚から取り出したのはこの本でした。
既成の『家康』像を完膚なきまでにぶち壊してくれたこの本、多くの歴史小説の中でもっとも好きな本です。

読み終えたので、感想をまとめます。

 

『遁げろ家康』のあらすじ

この本は、基本的に歴史準じて書かれています。
物語の始まりは、永禄3年(1560)5月、今川義元が企図した上洛から始まり、
元和2年(1616年)4月の家康の死で幕を閉じます。

上下巻に分かれていますので、それぞれ、簡単にあらすじを書きます。
あらすじと言っても、ようは日本史の記述なのですが・・・。

 

『遁げろ家康』上巻のあらすじ

上洛の軍を興した今川義元は、尾張の織田勢へ譜代の軍ではなく、外様や人質の軍を使いました。そのため、先鋒の一軍として配置されたのが、当時は今川の人質となっていた『松平元康(後の徳川家康)』でした。
家康は織田方の丸根砦を陥落させ、次なる指示を待っていたのですが、届いたのは驚きの一報でした。
『今川義元、桶狭間にて織田信長に討たれる』

人質として義元の側に仕え、今川の強大さを知っていた家康はなかなか義元討ち死にを信じようとせず、家臣団を困らせるのでしたが、織田方の属していた縁戚の水野などの働きにより、三河へ戻ることになります。

 

三河の岡崎城下へ戻っても、小心者の家康は城には勝手に入城しません。
あとで、どんな言い掛かりを付けられるか判らないためですが、家臣からすればなんとも歯痒い殿様でした。
岡崎城の今川方の守将が勝手に逃げさると、ようやく入城します。
そして、今川の様子を伺いつつ少しずつ三河に拠点を築いていくのでした。

三河で自領に組み込める土地がなくなると、最初の転機が訪れます。
今川の属将のままでいるか、袂を分かって自立するか・・・。
この時、目を付けたのが西の尾張で急速に力をつけていた織田信長でした。
織田と徳川の同盟を結ぶことで、今川から独立し、三河の今川領を攻め落とし、ついに30万石の大名となります。

 

織田と同盟したことで領土は増えたが、信長の苛烈な一向宗への対応は三河にも波及し、領土内で一向一揆が起き、さらには家臣の離反なども招き、時に命からがら逃げることもありましたが、信長とは異なる家康ならではの鎮圧方法で少しずつ乱を鎮めていきます。

姓を松平から徳川に変えた頃、三河の来たから武田の使者がやってきます。
同盟し、今川を攻めて駿河を分割しよう・・・と。
家康はそれ程乗り気ではなかったのですが、欲深き家臣達に引きずられて同盟し、今川を滅ぼし駿河にも土地を得ることに成功します。
が、これで『武田とお隣さん』になったことに、小心者の家康は不安を感じるのでした。

 

一方、西の怖い同盟者・信長から、上洛に同行しろ!と誘いが届きます。
要は、軍を出して露払いをしろということで、何の得にもならないことは百も承知だったが黙って家康は軍を出します。

案の定、信長は朝倉攻めを始め、家康と三河軍団はいいように使われてしまいます。
破竹の勢いで朝倉領に攻め込んだ織田・徳川軍でしたが、浅井の裏切りで一昼夜にして存亡の危機に陥ります。
信長はさっさと逃げてしまったので、同じく取り残された形の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と必死に戦い、辛くも危機を脱して三河に戻ります。

 

やられたらやり返す!
1570年、信長から『浅井を討つ!お前も来い!!』と言われると、文句は一切言わず再び軍勢を送り込みます。
尾張兵の弱さで負け戦気味のなったことに腹を立てますが、逃げるのは嫌だと奮戦した徳川勢は朝倉勢を打ち破り、続いて浅井勢にも攻めかかり、勝利を得ることになります。
しかし、織田・徳川勢には、この時点では一気に朝倉・浅井を滅ぼす力はありませんでした。

 

三河に戻り、各地で巻き起こる反信長包囲網を眺めつつも、家康は織田との同盟を違える事はありませんでした。

その理由は、律儀だからではなく・・・単に信玄の方が怖かったから。

信玄に同盟者として服従しても、絶対に殺されると思っていたから・・・。
その怖い信玄が、ついに動き始めます。

 

元亀3年(1572年)10月、信玄は上洛の軍を興します。
道中に立ち塞がるものは悉く踏み潰されていきます。
家康の家臣団は浜松城に篭城し、信玄の軍をやり過ごし、信長に押し付けることを進言します。
しかし、何故かこの時に限って臆病者の家康は篭城することを由とせず、信玄に打ちかかるのであった。
当時、浜松に居た茶屋四郎次郎(後に徳川家康の御用商人)との出会いはこの時でした。互いの小心振りを認めあう2人はこの後も長く親交を続けることになります。

12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田軍に完敗します。
死ぬぞ、死ぬ!死ぬ!
と喚きちらし遁げに遁げた家康は、命からがら浜松城に戻ります。

しかし、糞尿を垂れ流しながら城へ戻った家康を、何故か信玄は追撃せず、再び西上を始めるのでした。

せっかく手にした領土が、壊乱の危機に陥ったことを悩んでいた家康の下に、またしても朗報が舞い込みます。

元亀4年(1573年)4月、上洛途上の信玄陣没。

 

しかし、信玄が亡くなっても、後を継いだ武田勝頼は再三にわたって徳川領へ攻め込んできます。
同盟者の信長は中々援軍を差し向けてくれませんでしたが、
天正3年(1575年)6月、長篠の戦いにおいて、信長の鉄砲を活用した戦術によって武田軍は壊滅状態となるのでした。
戦いには勝ったものの、武田の勢いが弱りきっていないと見た信長は、武田領への侵攻を肯んじしませんでした。
そのため、その後3年に渡り、1人で武田軍に立ち向かわねばなりませんでした。

 

その後、ようやく武田の威勢が落ちたとみた信長は、甲州討伐をはじめます。
織田、徳川、北条に三方から攻め込まれた武田は、一ヶ月と持たず滅びます。
信長は武田に縁のあるものは悉く滅ぼす予定でしたが、甲斐兵の強さに目を付けていた家康がせっせと自軍に組み込んだ甲斐兵には手をつけませんでした。

 

信長の富士見物旅行の接待が終わり、お返しの京都見物旅行の接待を受ける最中、家康に人生の転機が再び訪れます。

天正10年(1582年)6月、本能寺にて明智光秀謀反。織田信長討たれる。

事件が起きた折、堺見物から京へ戻る途中であった家康は、事件のことを全く知りませんでした。
たまたま情報を手にした茶屋四郎次郎が、信長の死を家康一行に伝え、更に三河への逃避行を手助けしたことにより、家康は無事に三河に戻ることが出来ます。

 

信長の仇を討つと称しつつも、愚図愚図としていた家康の下に、上方から報せが届きます。
織田軍団長の1人である羽柴秀吉、明智光秀を討っ。

 

『遁げろ家康』下巻のあらすじ

織田信長という大きな傘を失った家康は、本当の意味で独り立ちをすることになります。
織田家の跡目争いには関わらず、彼が手を伸ばしたのは三河の北に広がる家主不在の甲斐と信濃でした。
着々と甲斐に進出していく徳川勢に待ったをかけるのが、北条でした。
当初、信濃へ進出した北条は、上杉と対峙した後に南下して甲斐の国へ軍勢へ向けます。
一方、甲斐の国を手中に収めつつあった家康は、兵力では全く歯が立たないためにあの手この手で北条勢を翻弄し、真田を味方に付けることでついに北条勢に甲斐進出を諦めさせることに成功します。

 

そのころ、織田家の跡目争いは火急を告げていました。
実績では上であった柴田勝家はあっさりと秀吉に討ち果たされ、跡目争いの行方は秀吉の元に落ち着きます。
家康は秀吉の勢いには叶わないと悟りつつ、家臣たちが『田舎者のトウキチ』には頭を下げたくないと言い募るので、難渋していました。

そんな時に、信長の次男・信雄が家康に一緒に秀吉と戦ってくれと助けを求めてきたのを契機に、秀吉と一戦交えることにするのでした。

 

天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いにおいて徳川勢は秀吉の率いた軍勢に対して一定の勝利を得ます。
しかし、あろうことか信雄が勝手に秀吉と和睦してしまったために、やむなく兵を引き上げることにするのでした。

 

九州の島津討伐に力を注ぎたい秀吉は、なんとしても家康を臣従させて、後顧の憂いを取り払いたいと考えていました。
そのため、妹を家康に嫁がせるなど必死に懐柔を試みます。
しかし、秀吉のいる大阪に行ったらきっと殺される!
と恐れている小心者の家康は、秀吉の誘いに首を縦にふりません。

そこで秀吉は、弟らの反対を押し切って、実母を家康の下へ送り届ける最終手段に打って出ました。
これ以上、秀吉に対立することは得策ではないと判断した家康は、恐れつつも上洛し、ついに臣下の礼をとるのでした。

 

小田原攻め、朝鮮出兵を経て、秀吉が亡くなると、家康はついに自ら天下を獲るために暗躍を始めます。

多くの豊臣恩顧の武将達を手懐け、敵対する石田三成を関が原で破り、人質に送られてから約50年の月日を経て、天下を自らのモノにするのでした。

 

天下人となった家康ですが、本質は変わりません。
小心、臆病、吝嗇、それに加え韜晦、悪知恵を身に付け、徳川の世を磐石のものにするために様々な手を尽くします。

 

その最後の締めが、豊臣家の滅亡でした。
自分が亡き後、世が乱れる可能性がある元を絶ち、せめて徳川の世が100年続くことを願い、非情な決意をもって娘婿である秀頼と孫を殺害するのでした。

―まず、ざっと済みたり。
自分のやるべき事をやり切った家康は、静かに最後を迎えます。

元和2年(1616年)4月、駿府城にて死去。享年75。

 

『遁げろ家康』のおススメ度はいくつ?

おススメ度は85点です!

 

遁(に)げろ家康 (上) (朝日文庫)

遁(に)げろ家康 (上) (朝日文庫)

 
遁(に)げろ家康 (下) (朝日文庫)

遁(に)げろ家康 (下) (朝日文庫)

 

 

日本史好き、戦国時代好きの方にはぜひ読んで頂きたい本です。

勝手な解釈です、歴史好きの人であれば、この本を面白くないという人はいないと思います!

それから、家康は面白みが無いので嫌いだ!
という人こそ、読んで頂きたいです。
その理由は以下の通りです。

 

『遁げろ家康』の面白さとは?

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

ホトトギス - Wikipedia

歴史好きなら誰でも知っている上の句、幼き頃の私は、次のように解釈していました。
信長は怖い人、秀吉は面白い人、家康は待ってる人・・・。

それが原点で、以降色んな本や漫画、テレビを見ていくうちに、
『家康は面白みのない人間で、言わば棚からぼた餅を拾ったずる賢い人』
となりました。

 

それゆえ

  • 好きな武将を教えてと言われたら、絶対に家康とは言いません
  • 歴史ゲームをプレイする際に、絶対に家康を選ぶことはありません

しかし、この本を読んでから、私の中の家康観は180度変わりました。

人間・家康の面白さを教えてくれた、大切な小説です。

 

芸人・家康はツッコミ役

人間・家康は、面白い人物でした。

この本には家康の台詞は2種類あります。

  • 1つは、実際の会話として書かれた台詞。「 」で括られています。
  • もう1つは、家康の独白としての台詞。―で始まります。

この独白が最高です。

芸人で言うと、家康は『ツッコミ』役になると思います。

己の家臣、上司やライバル、朋輩の武将達に浴びせる彼の『ツッコミ』が最高です。
シュールでもあり、情けなくもあり、家康の素を曝け出しています。

読み終えたとき、間違いなく『あなたの家康像』激変しているはずです。

 

家康が死を意識した時の台詞が最高

今川の人質時代から死の直前まで、彼はブツブツと独白を続けています。
どの独白が好きかは、間違いなく人それぞれだと思います。

私が一番気に入っているのは、死を意識した際のかれの独白です。

信長公は本能寺で壮烈な死を遂げた。秀吉は老衰の果てに死ぬ・・・おれは、てんぷらの食あたりかよ。

この独白だけでも、この『遁げろ家康』が面白そうな本だと思いませんか?

 

まとめ

繰り返しになってしまいますが、
『面白みがなくてずる賢い家康が大嫌い』な人こそ、この本は読んで頂きたい。

人間・家康の独白を通して、家康と徳川幕府を作り上げた三河武士の人間味を楽しむことが出来ます。

主人公が家康(徳川)になっている本は、織田好きや豊臣好きの人が読んでいると、気に食わない描写も多々ありますが、この本に限っては、あまりそういう感情が沸かないと思います。

大阪夏の陣の最後、助命嘆願をする豊臣をどうするか訪ねる家臣に対し、
『殺せ』と命じます。
彼の豊臣方への悪質な言い掛かりを知っている私達としては、
『なんたる嫌なヤツだ!』となるところですが、
家康の独白と共に彼の人生を歩んできた読者は、きっと家康にこう呟くでしょう。

―そうね、生かしておくと後が怖くて、おちおち枕を高くして寝れないものね。


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