lands_end’s blog

未破裂脳動脈瘤との闘いをコーギーに癒され暮らしています。鹿島アントラーズの応援と読書に人生の全てを掛けている40代の徒然日記です。

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『送り火』を読んだ!



送り火(著:重松清)を読んだ。

友人の死を見送った帰りの電車の中で、どうしてもこの本を読み返したくなった。
家に帰り、本箱から探し出した時は既に真夜中でしたが、朝まで一気に読みました。

どうして、友人を見送った帰りに読みたくなったのか?

それを、言葉に出来るかちょっと不安ですが。
3年ぶりにこの本を読み返し、感じたことをまとめてみます。

 

慰めの言葉はない、人生の応援歌が9つ

この本は、人生の挫折や苦しみを抱え込んでしまった、老若男女への9つの応援歌だ。
ただし、応援歌ではあるのだけど、優しさは表面上感じられない。
たとえば、
『あなた(きみ)は悪くないよ』
『運がなかっただけだよ』
などといった、上っ面な慰めはしてくれない。
または、
『次は大丈夫だよ』
『この先は良くなるよ』
などといった、根拠のない明るい未来図も示してはくれない。

むしろ、当人の挫折や失敗の事実を、当人の古傷を抉るように突きつける。
かといって、登場人物たちを、叩きのめす訳でもない。

短編1つ1つの文章・言葉にこめられた思いは、
『あなたの今立っている場所を明確にし、そこから一歩動けるように、そっと後押ししてくれる』
と言ってる様に感じます。

さらに、躊躇し、怯え、動けなくなっていた人が、
必死に前を向いて踏み出した先に、『必ず明るい未来がある』とは言ってくれない。

むしろ、悩みや苦しみはまだ続くのかもしれない。
それでも、『貴方(貴女)は独りじゃないよ』と。
神様みたいに手助けは出来ないけど、傍で見ている人は必ず居る。
『応援歌を歌ってくれる人は必ず居る。それだけは忘れないでな!』
私は、作者の思いをそんな風に感じました。

この本を読みながら、思い出したことがあります。
それは、中学のときの国語の先生が、短編や短いメッセージであればあるほど、書き手の技量が問われる。と言っていたことです。
この短編一つ一つは、文章量は多くありません。余分な文章や形容詞を加えたら、成立しない分量だと思います。
重松清という作家の、文章力や構成力の凄みを感じるには、最適の1冊だと思います。

それゆえ、納められている9つの短編の粗筋を細かく書くのは無粋なので止めます。
この本に限っては、要約して粗筋を書いてはいけないと思うので。

 

通勤・通学の列車の中で読む、9つの物語

この本は、武蔵電鉄富士見線が主人公の一人だと思う。
たぶん、この本を読む全ての人が、一度は電車で通学・通勤を経験しているはず。
固定の鉄路を走る電車だから感じられること。
『季節、天気、時間帯、健康状態、気分の状態、同乗者』
そのような環境の違いによって、同じ窓の外の光景が違って見える、感じられる。
『悩んでるときも、逃げたいときも、嬉しいときも、何も考えてないときも』
電車はとにかく前に向かって進む。

それが、作者がこの本に中に託した「人それぞれのKEY」だと思う。
だから、舞台がバスじゃダメだったのかな?と推測しています。

 

「フジミ荘奇譚」

この話しを、第一章に配置する構想力が凄いと感じました。
内容は、さほど斬新なものでは無く、どちらかと言えばどこにでもあるような内容なのですが、話しのテンポと読者の予想を外さずに、でも、ホッとさせる最後が秀逸です。
読みながら、子供の頃に見ていたまんが日本昔ばなしを思い出しました。
あの、独特のナレーションが聞こえてきそうな気がして・・・・。

タイトルのフジミがなぜカタカナなのか、あとがきにて作者が解説しています。

 

「ハードラック・ウーマン」

追い詰められていた。
時間の猶予は、もう、なかった。
絶対絶命だった。

この出だしの最初の1行で、グッと引き込まれた。
そして最後の、

<お互いに、この世界でしぶとく生き抜こうね>
-少し迷ったが、由紀子よりも自分自身のために<いつか花開くことを信じて>
と付け足した。
やっぱり、「信じる」って言葉をつかったうんだよなあ、と笑いながら送信した。

この部分を読んで、思わず「うん」って電車の中で声を出した自分がいた。


「かげぜん」

この章は武蔵電鉄富士見線が重要な役割を果たしている。
電車から見える景色、何気ない普通の光景が、
人によってまったく違った意味を持つと言えば良いのでしょうか・・・。

内容は、ちょっと考えさせられる内容でした。
自分が登場人物だったら、どう行動するのかな?と考えてしまい、何となくブルーに。

この章は、武蔵電鉄富士見線(おそらく京王線?)沿線に住んでいる方や、登場人物と同じ体験をしている人でなければ、真の意味で作者が言わんとしていることを掴めないような気がします。

 

「漂流記」

この章はまずいっす。
1章に入る前の前書きの部分で、背筋が凍る思いをしました。
わずか1ページ程度の記述で、ホラー小説って成り立つんだな!

そして、最後の4行。
もしもこの章を読んだ日の帰り、駅のロータリーに『それ(敢えて伏せます)』が置いてあったら、速攻でタクシーに飛び乗ったと思います。

内容に関しては、「かげぜん」と同じく、登場人物と同じ境遇の人と、そうでない人では感じ方は違うとおもいます。

ひとつ、自分への戒めとした文章があります。
登場人物の妻が、昼間の出来事を帰宅した旦那に話しているときに旦那が言った一言。

話しをさえぎって、晴彦とは「あのさあ」と言った。
「その話って、相談?報告?どっちなのかな」

これだけは、どんなに疲れていても、どんなに仕事でイライラしている時でも、嫁さんに対してしない!
と心に誓いました・・・。

 

「よーそろ」

この章も、武蔵電鉄富士見線のある駅が重要な役割を担っています。

読んでいる時何度も、ホームの光景が目に浮かびました。
こんな風に文章を書けたらいいなぁ、と嫉妬しますね。

内容は、駅員と男の子となぞのHP日記男・ムラさんの話です。
詳細はここでは書きませんので、ぜひ、読んでください。

私的には、最後のムラさんの日記が心に沁みました。

「異常なし、このまままっすぐ進め」いうんを、船乗りの言葉では、こない言うねん。
よーそろ!
よーそろ!
わしも、よーそろ!
あんたも、よーそろ!
あんたの目の前の水平線は「終わり」のしるしと違うでえ!


「シド・ヴィシャスから遠く離れて」

この章は、男同士でなければ読後の感じは同じにならないと思う。
女性がこの登場人物のような体験をしないと言っているのではありません。
ただ、男性と女性では、物の考え方や体験の仕方や方法、または過去の振り返り方が違うと思うから。

この章を読んで、私は高校時代の同級生を思い出しました。

奴は、弾けないギターを片手に、高校の玄関・下駄箱の先の少し開けたスペースで、朝も昼も夜も英語の歌(何の曲か誰もわからない)を歌っていた。
授業中も、突然、机の上に立ってマイケルの真似(だったと思う)になって踊り、
廊下に出され立たされると、反響するのを利用して何かをシャウトし続けていた。
授業は止まり、迷惑と言えば迷惑、楽しいと言えば楽しい。そんな思い出だ。

奴の事は、笑う奴の方が多かった。自分も『何してんだあいつ?』と思う一人だった。

高校一年の夏、奴は突然学校に来なくなった。
親にも内緒で、ギター片手にアメリカへ渡ったと聞いたのは、しばらく経ってからからだった。
学校中で話題になった。
みんな言葉では「ばかじゃね?」「殺されんじゃね?」と口にしつつも、
本当はみんな心の何処かで思っていた。
「いいなぁ」と。

それ以来、奴の噂は聞いたこともないし、会ったことも無い。
でも、その奴が、真面目にスーツ着ながら子供の手を引いて、幼稚園の送り迎えにやって来たら・・・。
その上、こちらに気付き、人の良さそうな笑顔を浮かべながら「やあ!」なんて言いながら近づいて来たら・・・。

俺も登場人物のように、殴るかもしれない。な。
そんな思いに耽った1章でした。


「送り火」

この章は、本のタイトルにもなっている章であり、いわばこの本の大黒柱である訳だ。

ネット上のこの本の感想文サイトには、
「送り火」の章が一番良かった!と書いている人もたくさんいる。
本のあとがきにも。この章からの引用が使われているくらいだ。
本当に、良い話しだと思う。
でも、私には、『良い話しだな』という感情以外に、浮かぶものがなかった。
幸いなことに、両親がまだ健在で元気に暮らしている。だからかも知れない。

数年、数十年経って、自分の環境が変わった時に、また読んでみたいと思います。

 

「家路」

この章は、やられた。
さっき、通勤・通学の電車で読むのに~なんて書いておきながらなんですが・・・、
これは電車の中で読んではいけない章だと思う。

この章は、ある理由で家に帰れなくなった2人の男の話である。
後半、伊藤に佐々木が自分の家(家族)を見てきてくれないか?と依頼する場面がある。その少し前に佐々木が語る言葉にやられました。

  • 「行ってきます」『行ってらっしゃい』
  • 「ただいま」『お帰りなさい』

この4つの言葉を語る佐々木の話に、私はやられてしまった。
不覚にも目の奥がツーンってなって、必死に鼻を摘んで、フンフンしながら泣くのを誤魔化しました。

そんなところで?と思われるかも知れませんが、今の私にはそこがポイントでした。

生活の中での「何気ない一言や態度」。
それを出来ることがどれだけ幸せなことなのか?
この春に患った病気を経て、今、一番感じてることなので、心に突き刺さりました。

 

「もういくつ寝ると」

このお話しを最後の章に据えた構成力も、重松清の凄みなのかな?と思います。
様々な暮らしの行き着く先が墓という流れ。凡人の私にはその発想は出来ないな。

お話しの内容は、家(住む家でなく、長男の嫁という意味での「家」です)と墓を巡る話しです。
中々、難しい話であり、たぶん結婚して相手の家族の存在をリアルに感じている人でないと、この主人公の「はぁ・・・」という境地は判らないのかな?と思います。

それと、富士山
私が生まれ育った街は、湘南地方の高台にあるため、晴れてさえいれば富士山はいつも見えました。だから、正直、富士山が見えることに特別な感覚が無いのです。

しかし、地方の人にとっては、富士山が見えることはやっぱり特別なのでしょうか?
大学生や社会人になってから、都心の電車や高層ビルから富士山がチラッと見えるだけで、「富士山だ!」って声を出すのは、地方からの友人が多かった気がします。

それに、私の親も数年前に遠い故郷にあったお墓を自宅近くに移したのですが、その時に父親が「富士山が見えるんだぞ!」と言ってました。
私は「墓の中で富士山もないだろうに・・・」と思いつつも、黙っていましたが、
富士山ってのは、そんなに『何が特別』なんでしょうかね?

それが判らないと、
このお話の最後の部分をきちんと理解できない気がして、ちょっと残念です。

本当に、何が特別なんだろう???

 

送り火のオススメ度はいくつ?

おススメ度は90点!

人生に、思い悩んでいるときに読むのはお勧め出来ないかな?
むしろ、身近な人が思い悩んでいる時に読むほうが良いかも知れない。

当たり障りのない慰めが無意味だと思え、
前に進むには「本人次第」だからと余計な慰めをせず、
ただ、「背中を押す」だけをすることが出来るかもしれない。 

送り火 (文春文庫)

送り火 (文春文庫)

 

 

友人の死を見送って、どうしてこの本が読みたくなったのか?

最初は、この本を読むことで、
『人生ままならないけど、諦めず、前向きに生きてこう』となりたいな。
と思ったのだと思う。

でも、何度か書いてきたが、
この本は『がんばれ、がんばれ』と言ってくれる本ではない。
『自分で前に進め。応援はしてやる。見守ってやる。だから前へ。』という本だった。

それでも、読んでよかった。
なんて言うか、友人との思い出をいくつも思い出せた。
葬儀の最中には思い出さなかったのに、読んでいるうちに、なぜだかいくつも思い出した。

それと、この本を読んで思うのは、『また、どこかで会える』気がしてきたから。
『また、会う日まで、僕は僕の道を歩いていく。色々しでかすだろうから、会ったときに話すよ。』

 

『送り火』を読んでよかったです。

人は生きる。友人と、家族と、そして一人で。9つの人生への応援歌。

 

 

重松清の他の本の感想はこちら。
昔の記述もあって、今読むとちょっと恥ずかしいのだけど・・・。 

 

www.road-to-landsend.net

  

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