今更かもしれないが、バッテリーを読んだ(角川書店・あさのさつこ著)。古本屋で買ってきて。。。
知り合いが、「野球好きならバッテリー読みなよ。面白いよ、きっと」と言われ、素直に買って読んでみた訳だ。
確かに面白かった、文庫5巻一気に通勤途中で読んでしまった。
話の流れはこうだ!
『才能はあるけど、自分の感情の起伏を持て余し、周囲と上手くコミュニケーションが取れない天才ピッチャーの卵。彼は訳あって長閑な田舎町に越してきたのだが、そこで生涯の友(たぶん)と言える奴に出会う。彼とのやり取りだけでなく、彼の周りの友人達(穏やかな生活を楽しんできた田舎の子供)、都会では感じられない自然の息吹、元高校野球の名監督だった祖父。幼児から少年になりつつある弟。今までに出会った事のない人や風景に触れていくうちに、天才少年は今まで頑なに閉じてきた心を揺さぶられ、時に開け、そして閉じこもりを繰り返す。彼と周囲の人を繋ぎとめるものは、野球であった・・・』
こんな感じかな、要するに。
面白かった!とは言いましたが、でも、何か釈然としないんだよね~。
児童文学と書かれているが、作者があとがきで書いている通り単なる児童文学とは思わないけど、それでも、これは野球小説やスポーツ小説ではないと思う。
そもそも野球って、団体競技なのか個人競技なのか、どっちだと思っているかで、その人が野球をやった事があるかないか結構わかるもんだ。
本当にやった人なら、即答は出来ない。
ポジションとしては個人競技で、メンタリティとしては団体競技。という摩訶不思議なスポーツなのである。ただし、個人競技としてもまたこれ偉く特殊だし。ピッチャーで決まると言っても過言ではない。
例えれば「商店街のおっさん草野球チーム同士の試合があるとする。片方のチームに松坂が入ってマジで投げた場合。誰も打てないし、はっきり言ってつまらなくなる。でも、松井が入った場合は、楽しめる、松井が打つ瞬間だけは、敵味方楽しめるんだ。」
判るかな?こんな例えで。。。
う~ん。なんか本の批判みたいになっちまったな。
批判するつもりはないんだが、なんていうのかなぁ。。。
違和感というか、感じているというか、不思議に思う事はですね、、、。
本を薦めてくれたのは女の子なんですよ。彼女は「野球って楽しそうだね、学生の時の部活動を思い出すね。いいねぇ」って言ってたんだけどね。
だけど、彼女には、一日中野球したあと、グローブから出した手を包む皮の匂いや、真新しいボールを使った時に指先に残る擦れた痺れ感覚、アンダーソックスを下ろした時の足のこそばゆい感覚とそこに残る痕跡。。。
この感覚は判らないんだろうなぁ。なのに野球は楽しいとか、いいなぁとか言うのはなぜだろう?想像で楽しんでいるという事だよなぁ~。
作者の人も女性だし、随分苦労したんだろうなぁ。でもやっぱり本当に野球はした事無いな。と感じてしまうのだ。それが、私が本を読んで感じる違和感なのかなぁ。
でも、懐かしさは感じられる。ちょっと鼻がムズムズしながら読める本だし、「そうなんだよ。子供の頃、すぐ大人に子ども扱いされ、真剣に相手にされない事にイライラしたもんだよ。」と共感する部分も多かった。
それと、これは作者の体験が存分に活かされているんだろうけど、天才少年と母親のやりとりやぶつかり合い。自分が仕出かした数々の悪事を暴かれているかのような気がして、読んでて恥ずかしいやら、、、。また、母もこんな事考えていたのかなぁ?と不思議な気持ちになったりして。
うん、やっぱり、野球をベースに使った、少年の物語だな。これは。
ま、時間あれば、パラパラッと斜め読みでもしてみて下さい~。
ふと思ったが、例えばこういった小説はアメリカではありえるのかもしれないが、例えばイギリスではないよな。やっぱり使われるスポーツはサッカーになるのかな。。。